淳子の放浪
生まれ=福岡日赤病院 幼児期=山口県岩国 幼稚園=愛媛県松山・広島県三原 小学校=広島県三原・東京都大田区 中学校=東京都調布・広島県三原 高校=愛媛県松山東・東京桐朋普通 大学=明治大学文学部演劇学専攻・NY市立シティーカレッジ音楽科ジャズ専攻…転々としてます。おかげでどこでも生きていけるというか、どこにいても自分を変えないというか、か弱い内面を守るため壁も築いてきました。大人になりまして、だいぶその壁も崩してきたのでそんなやな女じゃない・・・と思いますが・・・ウーム
淳子の夢
小学生=考古学者(夢の三大遺跡 カンボジア・アンコールワット メキシコ・マヤ ペルー・インカ)高校の入試面接で=映画監督か小説家か情報部員(いわゆる007です。)
淳子の声
「淳子ちゃんは、かわいいけど声がねえ」(子供のころこう見えてもかわいかったのだ!)よくこう言われたのを覚えてます。3年前に電話で小学生のころの友人と話しをすると「小学生の時と声が変わってない」とのことです。低い声、ハスキーヴォイスといわれる今の声は、別に酒と煙草のせいじゃありませんよ。でもね、音楽の歌唱のテストでのあたしのダミ声はみんなの笑い者。トラウマってやつでしょうか、いまだに歌を歌うことは、あたしにとって一番苦手なこと。だから今まで続けてこれたのかもしれませんね。
淳子と歌の出会い
大学時代ひょんなことから、鈴木清順監督のシナリオライターをしていた鈴木岬一さんの助手となりました。その関係で埋蔵金掘りにでかけたりしていましたが、ある日、中央線に乗っていて『マーサ三宅ヴォーカル教室』の看板が目に飛び込んできました。ググ!ジャズを聴きかじりはじめていた私は、演出家であり主演であるジャズヴォーカリストになろうときめたのです。21才の時でした。マーサ三宅さんに師事。「素晴らしい自己表現の方法見つけたり!」バラ色の日々は続くのでした。しかしある日「オイオイ自己表現するってほど自分は大きくないぞ。」と気付く時がくるのです。自分よりはるかに大きく深い音楽の存在に気付く、あの孫悟空とお釈迦さまの関係と同じです。本当のあたしの旅がはじまりました。
音楽との旅
1983年渡米85年帰国。 ライブスポットに出演しつつ、戦争直後の日本の歌謡曲、60年代アメリカンポップスのジャズ化を開始する。二本のベースとのコンサート・ラフォーレ原宿でクニ河内氏と昭和歌謡コンサート・琴と尺八と共にスタンダード曲を歌い、チェコ、フランスへの演奏旅行・坂上二郎、松村雄基等と高平哲郎演出のミュージカル「元禄花の恋 侍」 に自らのグループ「漂流楽団」(尺八、和太鼓、タブラ、ピアノ)を率いて 出演・国民文化祭に南部牛追い唄をジャズ化して出演・1920年代のジャズソングを歌う『上海リルとその楽団』の上海リルとして読売ホールでのコンサート・川崎能楽堂でのコンサートいろんな処でいろんな楽器いろんな人と共演することができてます。大成功やら大失敗を重ねつつこの幸せな?魔界の?旅は、果てしなく続くのでありました。ハハハ
淳子と映画音楽
水谷俊之監督・名取裕子出演 映画「勝手に死なせて」で ギャラリーの女主人役で出演。この時の音楽にケチをつけたのがきっかけです。「次は淳子ちゃんやってよ。」なんていいかげんなんだ!気が付くと、清水美沙、国村準出演映画「人間椅子」・大竹一重主演ビデオ「団地妻'98」上下巻 「未亡人と女教師」哀川翔主演の「三匹の竜」の音楽作曲ならびに音楽監督をつとめてました。