石巻報告記 2019 (その2)
Junko Sumi, Jazz Vocalist

☆ 大川小学校

もう一人の語り部ガイド鈴木さん

 もう一人の語り部ガイド鈴木さんは津波の次の日たどり着いて、お嬢さんの行方を探しつつも、土に埋まっている子供達の遺体を掘り起こしました。体を傷つけるスコップもシャベルも使えません。父兄たちは素手で土を掘り一人一人掘り出していきます。
 もう日が暮れるので今日は最後と言った時、まいと書かれたお嬢さんの上履きにたどり着いてしまいました。まいちゃんは綺麗な顔のままだったそうです。ただ鼻と耳には土がぎっしり入り込んでいました。34人の子供達が土に埋まっていました。



すぐそばに山が

 なぜか生徒たちは校庭で50分もの間、待機させられました。108名の生徒のうち家族がむかえにきた生徒が帰って行きました。ご存知でしょうか?全国どこの小学校も、家族がむかえにこないと引き渡せないことになっています。3月11日の東京でも何人もの生徒が父兄が仕事先から帰ってこられず、小学校に居残りました。
 その日、大川小学校でもむかえにきたお母さんたちは、「津波が来るというから山に逃げてね」と口々に言いながら我が子を連れて帰ったそうです。真横になだらかな山があるのです。

津波直後大川小学校

 私も来るたびに本当に悔しい思いでこの山を見ます。佐藤さんと鈴木さんはどんな思いでこの山を見るのでしょうか。当時は家が立て込んで山はすぐそこではなかった。ヤブだらけで登るのは危なかった。近所の方が言っているのも聞いたことがあります。けれどシイタケ栽培で子供達は毎年山に登っていたという意見も。結局3.7キロ離れた河口の10万本の松ばやしの松や瓦礫を巻き込んだ8.6メートルの津波が学校に流れ込みました。
 2階の教室の天井に跡が残っています。ようやく、それも川に向かって移動始めた子供達に津波が襲いかかり、はずみで山に飛ばされ松にひっかかった先頭と最後尾の4人が助かりました。それ以外74名は家に帰ってきませんでした。遺体を見つけた鈴木さんは娘を家に連れ帰ると主張しましたが、まとめて遺体安置所に持って行くからと言われ、泣く泣く娘さんを家に連れて帰るのを諦めました。

未来を拓く

 在りし日の大川小学校。洒落たデザインが自慢の小学校と3月11日直後の小学校です。鈴木さんがたどり着いた時は写真の水も引いていて生徒さんの遺体が散乱していたそうです。
 大川小学校の裁判では遺族側が勝訴しました。責任は石巻市、そして学校側です。
 もしものことを常に考え、避難路も確保し訓練しておくべきだった。当然の判決です。でもね親は裁判に勝ちたいんじゃない。子供に助かってもらいたかっただけですよね。でも、お二人は、こんなことを繰り返さないためにこうして、活動してらっしゃる。他の子の安全のために我が子が死んだなんて許せないのに!8年経ったいまもこうして!
 学校の校歌を聴かせてくださいました。校歌には珍しく題名がついています。「未来を拓く」。「ここ大川小学校から未来を拓いていってほしいのです」佐藤さんはそうこのガイドを締めくくりました。

☆ 大川地区『記憶の街』模型復元プロジェクト

模型

 大川小学校のそばにプレハブが建っています。その中にかつての大川地区を再現した500分の1の模型があります。
 ガイドは大川小学校卒業の大学生くんです。なんだかプラスチックの旗が多く刺さって見にくいなあ、なんてごめんなさい。これは私たちがかつての大川地区を知るための模型ではないのです。この模型は大川地区の皆さんが過ごしていた仮設住宅の集会所に持ち込んだものです。建築科の学生たちが白い模型を作り、皆さんが色を塗ったり黄色い旗にはここで魚をとったとか思い出を書く、透明なものには誰々さんちとか、赤いものには津波がどこまで来たとか、在りし日の大川を絶対に忘れないための模型なのです。
 大川小学校のガイド佐藤さんが言いました。「なぜ、こんな寂しいところにポツンと小学校を建てたのですか?そう聞かれことがあります。けれどここには多くの家があったのです」と、今は更地になってしまった皆さんの故郷は思い出のプラスチックの旗でぎっしりです。模型の大川小学校は、皆の記憶に焼き付いている美しい桜に囲まれています。